さよなら△。また来て死角。

キラキラ輝くもの

「おとぎ話みたい」と君は笑った


おとぎ話 "COSMOS" (Official Music Video) - YouTube


映画『おとぎ話みたい』予告篇 - YouTube

 

『おとぎ話みたい』を観ての感想

山戸結希監督の「おとぎ話みたい」を観た。しかも二回。たった二回といった方がただしいのかもしれない。一時間もない映画だけれども、体感としては私が今まで生きてきた年月以上の時間の重みを感じた。スクリーンが呼吸をしていてた。台詞が生々しい息遣いをともなって目の前に迫ってくる。観る前と観た後では魂の重さが違うのではないかと思うくらいに身体に言葉が押し込まれていく。詩的な鋭いナイフが自分の確実に痛い部分をえぐり出す。流した涙は決して綺麗なものではない。本当は泣きたくなんてなかった。自分が醜い人間だと認めたことになるから。「泣ける映画」ではない。映画に泣かされると言った方が正しい。一番の暴力は絶対的に美しいということだ。この映画は最後まで美しい。美しさの前では人はどこまでも無力だ。殴り続けられてもそれに抗うことができない。美しいものを語るということは口の中に拳銃を突っ込まれたような気分になる。自分の咥内に広がる鉄の味ははたして金属のものなのか、それとも自分の血の味なのかわからなくなる。そこにまで死が迫っている気がする。助けて、と言いたくても言葉を知らない私にはそれを伝えることができない。

過去の技巧と照らし合わせて星の数で評価をするなんて悪趣味でナンセンスでなにより無価値だ。映画にあらすじなんて必要なかった。必要なのは意味ではなくて、言葉と肉体と音楽だってことに気付かせてくれた映画だった。この映画を語るという行為も愚かに等しい行為なのかもしれない。映画の内容を考察することもできず、ただ自分が抱えた感情を書き連ねる稚拙な自己表現しかできないことがもどかしい。見終わった後は詰め込まれた言葉を反芻して噛み砕いていくことで精いっぱいだった。その後にひとりふらふらした新宿は私が今までみた中で一番綺麗だった。下品に光るネオンは行き先を導いてくれるシリウスに変わり、私のことなんてどうでも思ってない無関心の人ごみでさえ血が通い心がある人間だと思うと愛しく思えた。高くそびえたつビル群に埋もれるちっぽけな自分が冬の風に体温を攫われる瞬間こそが生の喜びであると白い息を吐きながら一目も気にせずに走りながら感じた。苦手だった街が少し好きになれた気がした。

「おとぎ話みたい」には大人も子供も敵も味方もなく、ただ少女だけが存在する。

少女は一瞬一瞬を死にながら生きているのだと感じる。恋をするということは卑しい行為だと気づいているのにそれに気付かないふりをする。自分の中の汚い部分に気付きたくないから。やがて、少女は自分の命が永遠でないことを知る。だから、生きようとして恋をするのだ。死んだ後も生きれるように。愛というのは「重力」である。昨日までは軽かった身体が重くなる。他人の人生まで背負ってしまったから。もう飛べないことを自覚することはつらい。地に足をつけて歩かなくてはいけない。初恋と名付けた瞬間にもう恋は終わっているのだ。愛の告白は愛した人の中に入ってしまえば背伸びした子供のませた戯言に変換されてしまい相手にもされない。人にはどうでもいいことでも自分にとってはさっきまで全てだったことを否定されるのは虚しい。さっきまでは同じ時空にいたはずなのに、告白したらもう一緒の未来を夢見ることさえ許されなくなってしまう。自分は確かに今この瞬間のことを一生懸命に綴っているはずなのに、愛しい人の中では全て過去と名前のついたデータフォルダに保存されてしまい、もう同じ時間に生きられないのだと実感する。青春の質量だけが重くのしかかってくる。制服を着ていることを愛してくれない理由にするのに、制服を脱いだらもう見向きもしてくれなくなってしまうならいったい何になればいいのか。関係性に名前を付けるとしたらそれはとても曖昧で義務感だけで繋がっていただけだった。少女は時を駆けていくことすらできない。愛されなくても胸は膨らみ嫌でも自分の存在が女であることを自覚していかなくてはならない。無料コンテンツの恋愛なんてしたくない。どうせ捨てられ絶望されるなら骨までしゃぶってほしい。あの時が一番綺麗だなんて言ってほしくない。はじけた赤い実も身体の中では血となり肉となり踊り狂っているのに、いざそれを口に出してしまうと安っぽくありきたりで乾いたドライフルーツになってしまう。青春というのはスタートもゴールもあらかじめ決められている。だからこそ生きていると感じる。終わりがあるからだとわかっているからこそ目の前の色彩が網膜に焼き付いていき手放せなくなってしまった。全部のノスタルジイに変わってしまうのに。卒業をすれば「東京」というユートピアはただの騒がしいネオン街に変わってしまい、夢が乱反射して輝いていた瞳も排気ガスや光化学スモッグにやられて濁っていってしまう。「東京」に憧れる人が羨ましい。私にとって「東京」は生まれた場所であり現実でしかない。「東京」に夢見たかった。「東京」に恋をしたかった。私が「東京」でできることは病名を与えられない患者として夢遊病でチカチカと点灯する繁華街をふらふらと徘徊するだけだ。

青春の万能感が切れたあとは人はいやでも大人になるしかない。

青春というのは「おとぎ話みたい」だった。あの頃は、全てがおとぎ話だった。あとで消すためにシャーペンで適当に書いた進路指導の紙も、好きな先生の話したことならたとえどんなにつまらないことでもメモして隙間のなくなったノートも、友達の耳元で囁いた根拠のない噂も、昨日偶然みたテレビの話も、校則違反の机の下で読んでいた漫画も、なんでもできると信じていた自分も。全部おとぎ話だったのだ。あの頃は自分が幸せになれると信じて疑わなかった。だって、自分が主人公だと信じていたから。どんなホラ話でも馬鹿馬鹿しい話でも聴いてくれて「ぜったいに叶うよ」と言ってくれた。みんな夢の世界の住人だったのだ。今まで私の感じてきた感情は全て「おとぎ話みたい」という言葉に集約されていた。いつからだろう、自分の目で世界を見れなくなったのは。背伸びをしていたはずが、いつのまにかヒールで足元は固定されてしまい「大人」に振り分けられてしまった。自分が好きなものの順位は後回しにされ、他人によく思われたいとしか思わなくなってしまった。保健体育の授業の意味を知ってしまったから人生が狂った。特別でありたかったのに平凡になることに憧れている。ある時ふと気づいてしまった、自分はわき役なのだと。自分の将来の話をしても肯定で返してくれる人なんで誰もいなくなった。代わりに薄笑いでこう言い放つのだ、「おとぎ話みたい」と。夢見る言葉はいつしか現実のアイロニーにしか使われなくなってしまった。

暗闇の中で表情の見えない愛の告白きっと映し鏡で、少女は自分の代わりを探していたのだと思った。理解者だと思った運命の人は実はただのモラリストだと知って失望するのだ。背伸びしても届かなかった愛した人の見た世界は、焦がれていた背丈と同じ高さになったいまではあの時感じた怒りも悔しさも喜びも悲しみも色褪せて、都合のいい部分だけをつなぎ合わせた綺麗な想い出とノスタルジイになってしまうのがどうしようもなく悲しい。そして自分は愛する人の体温すら知らなかったのだと実感する。本人不在の愛の告白の方がより生き生きしているのは言葉で愛を伝えようとしたのが間違っていたから。一番残酷なのは少女に言葉を与えてしまった神様だ。恋をしてはいけないと教えてあげなかったから、みんな傷ついている。少女という身体しか感情に耐えられない。愛の言葉を囁くよりどうか私のことを忘れないでください。自分しかわからないと思っていたことは本当は自分以外の人間にもわかっているって知っていた。それに気付かないふりをしているだけだった。自分がつまらない人間だと認めたくなかったから。自分の身体に合わない言葉を吐き出すから無理がきて恋が終わってしまった。人は誰しも自分が一番賢くて正しいと思っているからどうしようもなく孤独なのだ。

この「おとぎ話みたい」の後日談として作られたおとぎ話のMV「COSMOS」も本当に美しくて素晴らしい。夢を叶えるために東京に来た少女の世界は青春というフィルターを失ってしまったためにモノクロに変わってしまったけれども、それでも生きるために自分のためだけに踊り続ける少女からは指先から青春時代と変わらない色が零れおちていって、もう戻れない日々を思い出すのは辛いけれど全てが無駄じゃなかったと証明するために今を生きているのだと思わせてくれる。

 

(2014年過去の感想ブログから)