さよなら△。また来て死角。

キラキラ輝くもの

さよならガールフレンド

高野雀さんの「さよならガールフレンド」を読みました。

さよならガールフレンド (Feelコミックス FC SWING)

さよならガールフレンド (Feelコミックス FC SWING)

 

 

結論から言うとめちゃくちゃ良かったです。最高でした。元々高野さんの作品を知ったのはツイッタ―でRTで回ってきた「あたらしいひふ」という読み切りを読んでいたらすごく共感できて今まで感じてきた私の生きづらさを形にしてくれる人がいるということに興奮を覚えて嬉しくて泣きそうになってしまいました。


あたらしいひふ | ActiBook

似合う服と着たい服が乖離しているつらさとか男受けと女受けは違うとか結局自分の着たいもの着ても文句言われるし、他人に合わせても文句言われるしもうなんなんだよ生きるってめんどくさい。白旗振らないと生きていけない。バラバラだった登場人物の人生が全て重なったラスト見るときは涙で目が霞んでました。洋服って一目で「自分の人生はこんな感じで、性格はこんな感じですよー」とプレゼンするためのツールでそれによってカテゴリ分けされていくと思うんですけど、一旦自分のタイプを決めてしまうとそこから抜け出せなくなってしまうというあのアリ地獄みたいな息苦しさがぶわって広がってました。もはや自分が着る立場じゃなくて洋服に「着られてる」側になっていんですよね。それを「ひふ」と表現するのは素晴らしいなと思いました。

そんな感じで「あたらしいひふ」から知った「さよならガールフレンド」を読んだ感想を自己満足に綴っていこうかと思います。

 さよならガールフレンド

この本を買おうと思ったのは「さよならガールフレンド」という題名がとても素敵だと思ったから。あと表紙の雰囲気が好きでジャケ買いだったのかもしれないです。私は「さよなら」という言葉が好きでそこにはもう引き返せない決意と未来への希望があると思ってる。もう絶対会えないかもしれないのに「またね」といわれて期待させられるのはなによりも残酷だと思う。いつもいろんなものにさようならしなくてはいけないけどなかなかできないまま生きてきていて、そうしたことを繰り返していくうちに中途半端でつまらない人間になってしまったんだと思った。

ビッチ先輩ことりな先輩がすごく好きです。ギャル/ヤン女萌えの私にとっては最高にいい女です。私は自分と逆ベクトルで生きている人間はフィクションとして考えていてそういうものにどうしようもなく惹かれてしまうのでちほも同じ気持ちだったんじゃないかな、と勝手に思ってました。あと「女」としての記号ではなく「人間」としての記号として愛されたかったちほにとって自分を対等な人間として扱ってくれたりほ先輩は退屈な日々に差し込んだ希望の光だったのではないかなあ、と思いました。実際東京に行ったら何か変われるかもしれないという幻想は東京にきたら木っ端みじんに壊されてしまうのだと思う。だから、故郷から出れずに故郷で死んでいく人の生き方も正しいし幸せの形であるのもわかります。でも、やり直すために自分を知らない街に行きたいという気持ちもわかります。優柔不断だけどあらゆる可能性を否定して生きたくない。りほ先輩の言っていた「もう今更キャラ変とか無理っしょ」という言葉が胃に重くのしかかった。人生にセーブポイントがあって間違ったら何度もやり直せたらいいのに、と夢みたいなことを何度も思ってきた。もちろん実際はそんなことできなくて選択肢を間違えたら「最初からやり直し」を選ぶほかなくて今までの自分を全部捨てなければいけない。人生とは「選ぶ」ことではなく「捨てる」ことの繰り返しなんだと思う。「最初からやりなおし」のコマンドを押したちほと「このまま続ける」を押したりほ先輩の人生もどちらも正しい故にとても悲しいけれど、またふたりの人生の世界線が交差することを願ってます。ちほにとってりほ先輩に対する想いは全て「さよならガールフレンド」という言葉に凝縮されているなあと感動しました。いつかさよならするために田舎で生きてきたちほにとってりほ先輩は田舎でできた唯一の未練で、最初は田舎というパズルのひとつのピースでしかなかった先輩が気が付いたら「さよなら」を言うほど大切なガールフレンドになっていたのだなと感じました。

そして、どこにいようと人は生まれながらにして「東京コンプレックス」に蝕まれているのかもしれないとぼんやりと考えた。私は東京コンプレックスで、いつも高層ビルに見下されて育ってきた。田舎の閉塞感は味わったことはないけれど、でもどこにも居場所がないその焦りや憤りや不安感は私が知っている感情そのものでデジャブとかそんなものではなくて自分自身がそのままトレースされている感覚を覚えた。東京はなんでもあるけど私は何者でもない。ショーウィンドウに移される半透明な等身大の自分。地下鉄で暗くなった時に扉に浮かび上がる疲れた顔。女子トイレのメイク台。東京は自分から目を離さないようにはりめぐらされた大きな鏡のような存在でどこまでも自分が自分を追いかけてくる。だから、自分がからっぽだという一番気付きたくなかった事実が日に日に迫ってくる。空虚な自分を埋めるためにスタバに通うし、パンケーキの写真を撮る。自分を見つけようとすればするぼど自分から遠ざかっていき焦りだけが積み重なっていく。だけど、つまらない自分と向き合って生きていかなきゃ何も変われないし、変えようと思って生きなきゃダメだよなと思いました。世界がつまらないのではなく自分自身がつまらないから居場所を変えてもダメだと気づかせてくれた作品に出会えたことに感謝です。思ったより自分は直接的にも間接的にもいろんな人に救われて生きているなと実感してます。面白いものに出会ったあとは世界が面白く見えるように、私も人にとってそんな風になれたらいいなと思います。

『さよならガールフレンド』を読んだ後は私もつまらない自分とさよならできた気がして、いつもは下品に光って見える新宿のネオンが眩しくてキラキラして見えた。世界はもっと面白いかもしれない、と色のついた世界で排気ガスの混じる空気で肺を満たしながら思えました。

 

面影サンセット

 「あれ、おかしいな」と思いながら気が付いたら身体が錆びていることに気がつく。年齢のカウントがだんだん増えていくのに精神年齢は中学生から変わらずに取り残されていくあの何とも言えない焦燥感。私は19歳から20歳に変わる瞬間がとてつもなく怖かったんですけど、あの「もう戻れないんだ」という何とも言えない絶望を閉じ込めたような作品でした。自分ではまだいけると思っていてもいつのまにか対象年齢からはずれて指をさされないためにいつも鏡を確認しないと落ち着かなくなってしまった。いつも大人になりたいなりたいと思っていたけどいつから大人になりたくないと思うようになってしまったんだろう。一年というのは思ったよりあっという間に過ぎていってそのたびに「まだ若いんだから」という言葉に救われるのはいつまでだろうと指折り数える。自分にはもうこれしかないと縋ったものもこれでよかったのだろうかという後悔に変わっていく。けれど、それでも朝は来て夜も来る。綺麗な朝日を見て、明日がくるからまだ頑張ってみるかと思える作品でした。

私のニュータウン

 個人的に読んでいて一番胸が痛くなったお話です。「ああーーーーああーーーー私この感情知ってる!!!!他人事ではない!!!」って気持ちが心臓の壁をどんどん叩いて五月蝿かったです。感情あるあるすぎて人間だということを忘れて赤べこになって首振りながら共感してました。元々女子校育ちなので「女友達に彼氏ができた時の微妙な感情」との付き合い方については人生の命題にするくらい向き合って考えていて、特に大学生になってからは全ての人間関係がセックスできるか/できないかの二元論になってきていつもそれをしゃらんくせえって思って頭掻き毟りながら悩んで病んでいた時期があったのでこの作品を見たときにようやく出会えたと思えました。そしてこの感情に名前をつけるとしたら「世界が滅びればいいのに」のに一言で済むと気がつかされました。そうだ、私はずっと世界が滅びてほしかったんだ。「友達に彼氏ができて寂しい」といった時も、「女の子のアイドル」が好きといった時も、全ては私が女であるがために静かに光る綺麗に光るこの愛とも恋ともいえない感情が「じゃあ、セックスできるの?」「それってレズじゃん(笑)」と半笑いで馬鹿にされて終わってしまうことがたまらなく悔しかった。違うんだ、そうじゃないんだと否定したくても全ての感情を恋愛という計算式に代入してしまう人には私の言葉は届くことがないのだなと諦めて生きてきた。恋人になりたいわけでもセックスがしたいわけでもなくてずっと自分が守り抜いてきた一番目というポジションがいとも簡単に奪われてしまうのが悔しくて憎くて悲しくてたまらないんだ。世界はずっとふたりだけの為にあると思っていたのにそうでないと気づいたときの絶望は言葉にできない。ずっと傷つけまいと大切に扱っていた宝物を男であるだけで奪っていって、挙句の果てにセックスもキスもできてしまうなんてずるい。今までは映画が公開されるたびに隣に座って終わった後はぐだぐだ感想を言い合って、新しいパレードを見るためだけに遊園地に行ってはしゃいで、面白い漫画を貸し合ったりしたどうでもいいけど私にとってはどれも大切でずっと続くと疑ってなかった幸せが「彼氏」という存在に全て壊されて自分はどうしようもなくどんなに頑張っても2番手にしかなれないと自覚するのが嫌なだけなんだ。そういう自分の中のドロドロした気持ちがちゃんと綺麗に加工されて作品になっていたので高野さんはすごいと思いました。

世界が終わらない限りわたしたちは 

また会うことができる話すことができる  

それを希望と呼びたいんだ

最後のこの言葉がとても好きです。そうだよなあ、とじんとあったかいものが心の中に染みわたりました。関係性は時間と共に変わっていくけど好きという気持ちは変わらないなら最後まで貫いて生きていきたいと思いました。

ギャラクシー邂逅

銀河鉄道の夜みたいなぽんわりとした詩的な作品で個人的にすごく好きだなあと思いました。高野さんの言葉は他の作品だと普段見ないふりしているところをグサグサ刺してくる三角定規みたいな鋭利さを秘めているんですけど、こういう風に優しさを散りばめて組み合わせていくこともできるのだなあ、と感動しました。私は思ったことをそのままにしか言葉で模写できない人間なので抽象的に綺麗な形で表現できるのは羨ましいです。人に惹かれる気持ちを「惑星」や「重力」に例えるセンスがすごい。確かにこの世にある全ての気持ちは万有引力で説明できるのかもしれないな、と思いました。普通にすると説明文になってしまうことをロマンチックというオブラートで包んだリアリティに昇華しているところが本当に大好きです。ボギャブラ貧民で上手く言えないんですけど、惹かれあうのに理由はあるけど理由はないみたいな、結局全て後付けなんだから好きってわかればいいじゃん!みたいな爽快さがよかったです。感情に形はないのだからそれを何と呼ぶかは自分で決めればいい。

 まぼろしチアテーゼ

エグいくらい心にくる作品でした。性別が「女」であることと「女の子」であることは別物であるって自意識過剰上等でこれは私の言いたかったことを全部代弁してくれている!!!って思いました。ずっと自分のことを「女の子」のできそこないだと思って生きてきたので時々「女の子」扱いされることに浮かれてしまうはたからみたら馬鹿に見えるし、自分でも単純すぎて嫌気がさすけどどうしようもなく嬉しくなってしまう気持ちわかりすぎる。けれど、一瞬の熱で浮かれてもその魔法が切れたあとの虚しさが半端ないんですよね。だからまた「女の子」になりたくて嘘に溺れていってしまう。ずっと不幸と鬼ごっこしてる状態の無限ループに陥ってしまう。私にとって「女の子」というブランドはとても残酷すぎる。明るい髪色。ブランド物のバッグ。雑誌に載っていそうな全身コーデ。高くて折れそうなヒール。綺麗に引かれたアイラインとリップ。どれもこれも似合わなくて一人だけ群れで色の違うことに気付いてしまった魚になった気分になる。聴き耳を立てて聞いた恋バナはどれもこれも別世界のお話のようで、かみ合わない話に愛想笑いと相槌で誤魔化す日々。どうしてだろう、と考えて出る答えはいつも「私が『女の子』ではないから」。

わたしには「女の子」の資格がない

だから愛されなくてもしょうがない

この人が私と製造元が同じなんて 酷い冗談だわ

私にはない「女の子」の資格がある人

愛される資格がある人

 作品の中のこの言葉は特に印象的で、それは形は違うけれど何千何万回と心の中で唱え続けていた言葉だったからだ。もやもやしていたものがはっきりと輪郭をもって現れた時の興奮で心臓が脈打つ音が聞こえた。世界が愛される前提で構築されていることが怖くてしかたがない。「女の子」という枠から少しでも飛び出ると「そんなんじゃ誰からも愛されないよ?」と悪魔が囁いて、そのたびに逃げ出したくなる気持ちを抑えて世間の言う幸せの手本を丁寧に丁寧になぞる。私が今なんとか「女の子」として勘違いされるのは若さがあるからであってそれがなくなった未来を考えると恐ろしくて頭の中でチカチカと孤独という文字が瞬いては消えていく。キャバクラのティッシュを貰えるのも知らない人から声をかけられるのも「女の子」だからではなく私が彼らにとって都合のいい存在だからにすぎない。元々たんなる退屈さを埋める為の気休めで彼らは私が何を喋っても聴いてないし聴こうともしない。ただ自分のことだけを壊れた機械のように繰り返している。そういう時惨めな気持ちになって、自分が透明人間なのではないかと思い始める。そういう気持ちを高野さんが訳すと「呪いが滲みだす」というのだなあ、と感動しました。声に出して読みたい日本語です、「呪いが滲みだす」。

でも、最後に主人公のりさこのお姉さんが言っていた「私女の子代表になんかなったことないよ」という言葉にすごく救われました。勝手に自分で決めたカーストに囚われていただけで本当は「女の子」であることに上も下もなくてただみんな今をど真ん中で生きているだけなんだとわかった気がして、自分の中で「女の子」でいることが少し抵抗がなくなったような気がします。愛されている人は愛されるためにそれそうとうの対価を支払っているのであって、愛されることで失っているものをたくさんあるしつらいこともあるし全部が全部ひっくるめて幸せに変換することは不可能なのだと実感したら、昨日の敵は今日の友なのかもしれないと思えてきました。全ての「女の子」が「女の子」から解放されて幸せになる日を願っています。

エイリアン/サマ―

私の中の童貞が騒ぎだす作品でした。ありがとうございます。カルピスの原液をそのまま飲みほしたような青春の甘酸っぱさが最高でした。個人的に夏という季節が好きなので夏全開って感じで最高でした。全体的に疾走感と爽やかさで駆けだしたら止まらないアイドルのPVっぽい感じがドルオタの血が騒ぎました。短いけれど青春全部つめこみました!みたいな濃度が濃い作品でよかったです。この気持ちを恋と呼ぶのか友情と呼ぶのかまだ知らないけど一緒にいると落ち着くみたいなもどかしい関係が好きだなと改めて思いました。個人的に異性をエイリアンとかドラえもんに例えるの超わかります。青春時代に同性だけの閉ざされた空間にいると自分と違う性別の人間がいると「あ、テレビでやってたぞ!」「ネットのデマじゃなかったのか…」ぐらいの傍観者の気分で接するようになってしまって、喋るのすらまにならないし、本当に未知との遭遇という感じになってしまうんですよね。だから、恋とか愛とかそれ以前にエイリアンの生態を知らなきゃいけないあの感覚。恐れ多すぎて触れることもできない。エイリアンの血は何色なんだろう。まとまらないけどとりあえずは青い空、熱くなったアスファルト、同級生の大人っぽいだるそうなギャルが出てくる作品にはずれはないし最高です!

 

全部の作品に共通するのは台詞のひとつひとつが丁寧で綺麗で読み終わったあとに何度も何度も反芻して噛み締めたくなるものばかりで、私は言葉でしかものを考えられないので私の中で長年ちらばっていた感情は視覚化するとこうるんだなあということを絵と台詞で見せてくれた高野さんが最高に尊敬しているし大好きだなあと思いました。高野さんの描く女の子はふわふわでカラフルで抱きしめたらやわらかいけど女の子だって血と肉とできているし脳髄が染みわたっているんだよという生々しさがとても好きです。毒があるくらいが可愛いです。女の子に与えられる記号は「サブカル」「メンヘラ」「ブス」とかマイナス記号が多いからそれが私は悔しくて女の子になりたくなかった。けれど、私が幸せにしたい女の子たちを幸せにするために必要なのは私が女の子として幸せにならなきゃダメなんだと思いなおした。女の子が女の子を求めるのはプラスの記号になるためだし、女の子を救えるのもまた女の子だと信じてる。

 関係ないですけど、読んでる最中も読み終わった後も頭の中に大森靖子さんの「絶対彼女」が流れました。「さよならガールフレンド」は生まれ変わるならまた絶対女の子がいいって思わせてくれる作品でした。

 


大森靖子『絶対彼女』Music Video - YouTube